『ヒャッコ』と空間表現

ヒャッコ 3 (Flex Comix)

ヒャッコ 3 (Flex Comix)

 カトウハルアキは空間表現が非常に巧みな漫画家の一人である。とりわけ、複数の異なる空間を交互に差し込みながら同一の話を展開させるところが巧い。『ヒャッコ』の第3巻で秀逸なのは「19コメ 虎子故に迷う鬼心」である。3巻収録の他の話では、主要な人物どころかモブまで含めて非常に多くの人物がひとつの空間(ひとつのコマではなく)に配置される。しかし、「19コメ」のみはひとつの空間に最大で3人までしか配置されない。モブに至っては一人も描かれない。なおかつ、複数の空間が交錯した場合であっても1頁には3人までしか登場しない。これが単なる作画の省エネではなく、演出効果を狙ってのことだというのは3巻全体を読み通せばわかるだろう。
 以下、順を追って詳しく見ていこう。

(p.58/59)

 58頁は中扉で、コマ割りが始まるのは59頁から。
 空間1。「驚く表情の歩巳と龍姫」で始まり、「歩巳と狐の足下を見下ろす構図」で終わる。最終コマには誰の表情も映らない。

(p.60/61)

 空間2。59頁の最終コマを引き受けて「鬼百合の足下から見上げる構図」で始まる。この構図でも鬼百合の表情は映らない。60頁の下段右で「鬼百合の背中とそれを突く雀の腕(両者表情なし)」、下段中央で「振り向く鬼百合の表情」、下段左で「雀の怒った表情」と続き、61頁上段で60頁下段右と同じ状況を違う角度から映す(ここでも両者表情なし)。61頁上段のコマは60頁下段右のコマからほんの一瞬後の場面だが、あいだに2コマ差し挟まれ、そこで視点の移動が行われている。読者は隠されていた「表情」という新しい情報を1コマごとに受け取るので、あいだに2コマあっても冗長には感じない。にもかかわらず、2コマ分時間の進行が遅延されているので、ゆっくりと時間が進んでいるかのように感じられる。この緩やかさを受けつつ61頁下段は「夕焼けの空」を映し、空間3を開始する。

(p.62/63)

 引き続き空間3。61頁の「夕焼けの空」を引き受けて、「屋上で膝を抱える虎子・その後ろに立つ冬馬(両者とも後ろ姿だけで表情なし)」。62頁中段は「困った表情の冬馬」。台詞はなく、62頁上段と中段のコマは時間的には同時である。59頁で空間2の時間感覚を引き継いでいる読者は空間3の時間が止まっているかのような感覚を違和感なく享受する。ここで空間3の時間は止められ、62頁下段から空間1に戻る。
 63頁上段右「表情のない歩巳・龍姫・狐」、上段左「表情のある歩巳・龍姫」、中段「狐の手のみ」(ここで虎子の母親が亡くなっている、という真実を明かす)、下段右「驚く表情の歩巳・龍姫」、下段左「表情のある狐」。上段右のコマに表情がないことで、読者の視線は吹き出しで語られる内容に集中する。中段も同様の効果がある。59頁と合わせて、ここまでの空間1は狐対歩巳・龍姫という対比の構図を描いている。この対比が記憶されることで、66頁からの空間1の分離は本当は時間的な分離なのだが、あたかも空間的な配置上の分離として描かれる。

(p.64/65)

 再び空間3。64頁上段「表情のある虎子・冬馬」は、62頁中段「困った表情の冬馬」を引いた絵になっている。したがって時間的には62頁中段の直後である。ところが、読者は64頁から65頁にかけての空間1を情報として読み込んでいる。だから、狐の「(虎子の母親が)亡くなっている/死んだんだよ/病気だって聞いたけど」を引き受けて、64頁上段の虎子の台詞「トーマ、アタシをなぐさめて」を容易に誤読できる。ここでの台詞は実際には、姉と喧嘩をして頬を叩かれたことに関しての「なぐさめ」であるはずなのだが、読者は虎子が母親を亡くしたことへの「なぐさめ」に読めてしまう。歩巳・龍姫と冬馬のあいだには情報量の差があり、63頁から64頁にかけては空間的にも話としてもつながっていない。だが、64頁の虎子の台詞があるために読者にはつながっているように読めてしまう
 64頁中段からは同じ焦点の当て方が反復される。「冬馬」「冬馬」「虎子と冬馬」「虎子」「冬馬」。この展開は65頁では「冬馬」「冬馬」「虎子と冬馬」。中段でもう一度「虎子と冬馬」を出して仕切り直し、「虎子」「冬馬」。コマの割り方を変えているが、焦点の当て方は両頁で同じである。読者はテンポを崩さずに、虎子と冬馬という1対1の構図を頭に入れられる。

(p.66/67)

 空間1。66頁上段で「表情のない歩巳・龍姫」、下段で「表情のある横顔の歩巳・龍姫」。そして、それぞれの表情をクローズアップしたコマを67頁では大胆に上段「龍姫のみ」、下段「歩巳のみ」で出している。その2つのコマを割る中段には、63頁の直後と思われる(つまり、66頁から見ると時間的に前に戻る)狐のコマが入る。64頁・65頁の虎子と冬馬の1対1構図が頭に入っているので、読者はここで時間が飛んでいてもすんなり歩巳と龍姫の1対1構図を受け入れられる。そして、63頁までの2対1構図が過去のものであることを、1対1構図の真ん中に「過去の狐」を割りいらせることで表現している。人物配置の構図を2体1から1対1にずらすだけで時間の経過さえも表現している

(p.68/69)

 68頁3段目「歩巳と龍姫の後ろ姿」で空間1は終わり、それを引き受けて68頁4段目「狐の後ろ姿」から空間4。69頁は上段で空間4「狐の横顔(表情あり)」、下段で空間2から移動した空間5「鬼百合の横顔(表情なし)」の対照を描く。これも1対1構図である。

(p.70/71/72)

 69頁下段の「鬼百合の横顔(表情なし)」を引き受けて、空間5に空間3にいた虎子と冬馬が入ってくる。いったん2対1構図が導入されるのだが、すぐに鬼百合と虎子の1対1構図に焦点が絞られる。70頁下段右、71頁上段右、71頁下段右と続く鬼百合はどれもやや斜めからの横顔で表情に変化がない。他方、70頁上段、71頁上段右、上段左上、上段左下、下段左と続く虎子の表情はすべて違う。これを踏まえて頁をめくり、72頁。上段で初めてみせる「優しい表情の鬼百合(虎子からの目線)」、中段で「泣きながら謝る虎子(鬼百合からの目線)」、下段で「居心地の悪そうな冬馬」。
 表情の変わらない鬼百合と、ころころ変わる虎子の対照を利用して72頁の上段・中段の効果を上げている。同一のコマの中に描かれていないにもかかわらず、それまですれ違っていた二人の視線が71頁下段から72頁の上段・中段にかけて重なり合い、「同じ場所」の共有を見せる。
 67頁で「したたかに」2対1構図から狐が退場したのとは対照的に、72頁で焦点がすでに1対1構図に移っているにもかかわらず「退場しそこねた」冬馬が居心地悪そうにしているところなども、実際のその場の雰囲気・作画上の構図の両面を重ね合わせている巧い見せ方だ。
 『ヒャッコ』のアニメ化が決定したようだが、ここで述べたような空間の切り取り、コマの割り方による表現の妙技はマンガならではのものである。もちろん、カメラワークなど動画の手法をマンガに取り入れている部分もある。しかし、マンガで巧く表現されたものがそのまま動画になるかは疑問だ。マンガにはマンガ固有の表現技法があるし、アニメもまた然り。できればアニメならではの空間表現が見られるものを期待したい。

さいごに

 ところで、72頁下段左の最後のコマで虎子の鞄から携帯電話の着信音が聞こえる。これが、68頁の歩巳と龍姫であることは想像に難くない。空間5と空間1は空間を超越する装置としての携帯電話によって統合される。最終的に、狐がいる空間4以外のすべての空間は姉妹の和解の場所である空間5において収束する。しかも、彼女たちが異母姉妹であるという点はきわめて象徴的である。百合マンガであるか否かを問わず、女の子の登場人物たちが和気藹々とする様子を描き出すマンガには、彼女たちに姉妹的性格を重ね合わせて読めてしまう傾向がある(血縁あるいは擬似でも姉妹にこだわる必然性はないもかかわらず)。『ヒャッコ』は比較的それが前景化しないタイプのマンガだが、それでもこの「19コメ」や、あるいは「21コメ」の火継の登場でそうした特徴を再確認せざるを得ない。いったいこれがどういう事態なのかは、また稿を改めたい。