王子様とお姫様

かわいいあなた (IDコミックス 百合姫コミックス)

かわいいあなた (IDコミックス 百合姫コミックス)

 乙ひより『かわいいあなた』の表題作「かわいいあなた」は女の子に好きだと告白された女の子の心の変化を描いた作品。幼い頃から男の子に見間違われ、おかまみたいと笑われて傷つく藤代まりあ。いやでも認めざるを得ないほどかわいらしく、それを認めたくない同級生の女子たちに毛嫌いされながらも、意に介さず我が道を行く柴崎あかね。高校の文化祭でまりあは王子役を、あかねはお姫様役をすることになった。あかねはまりあのことを好きだと言い、かわいいと言う。そう言われるたびにあかねは「自分がみじめになってくる」。「そんなかわいい顔で私のことかわいいっていわないで」と思う。この時点でのあかねは「女の子に対する女の子の目線」であかねを見ている。同じ女として容姿を比べてしまう。すると自分のことがみじめになる。そんな自分をかわいいと言われることに納得できない。どちらがよりかわいいかは明白だからだ。
 しかし、舞台をいやがっていたまりあの為に自分の衣装を破いておく、という細工までしたあかねに告白され、彼女を意識するようになった後のまりあの認識は変わる。「あかねさんはカッコイイ」。それは彼女が自分のためなら何をするのも厭わないからだ。だから、どれほどお姫様の格好が似合うのだとしてもあかねはまりあにとっての「王子様」なのである。もはやまりあの目線は女の子どうしのそれではない。「あかねさんといるとなんだか自分がかわいくなったような気がするからふしぎ」とまりあは思う。これは「王子様に対する女の子の目線」だ。
 冒頭の短編「Maple Love」でも同様だが、女の子に好かれてしまった女の子が認識を変える契機は「自分のためなら何でもする」相手の献身である。あかねは、まりあにお姫様の格好は似合わないと何気なく言ってしまう級友に対して怒る。舞台に出ることが憂鬱なまりあのために、自分自身の衣装を破いておいて舞台を中止にしようとする。まわりからみれば傍若無人でしかないふるまいは、すべてまりあに向けられた愛情だ。まるでお姫様の危機を王子様が救うが如く。
 作中に出てくる「マレーン姫」はグリム童話の一編。隣国の王子と相思相愛の仲であったマレーン姫が政略によって仲を裂かれ、幽閉される。その間に国は滅び、マレーン姫は放浪する。着いた先はかつて相思相愛の仲にあった王子のいる隣国。そこでは、王子が別の国の王女と結婚する準備が進められていた。しかし、この王女は容姿に自信がなく、偶然にも給仕の仕事をしていたマレーン姫に身代わりを頼む、というお話(この後、王女とマレーン姫のあいだで一悶着ある)。あまり本作品の筋とは重ならないのだが、容姿に自信のなかった王女とマレーン姫の二役をまりあの認識が変わる前後にあてはめると、よく通じる。
 元より女の子が好きなわけではない女の子が、同性からの告白にこたえるには劇的な意識の変化が伴わなければならない。それはまるで異なる人格に移行するかのようなものだ。但し、乙ひよりはそれを重々しく深刻に描かない。自分をお姫様だと認めてくれる王子様の登場、という比較的使い古された舞台装置を利用して、意識の変化を実にスムーズに流してしまう。「Maple Love」でも相思相愛となった後で、かえは「なにかかわったんかなぁ」とつぶやく。おそらく、ほとんど何も変わっていないのだ。
 意識の劇的な変化が二人の関係の方向性を変えない。このモチーフは(もちろんすべてではないが)ある種の百合漫画作品にとって重要である。こうした作品群が示しているのは、女の子どうしの親友関係の延長線上にある百合関係だからだ。男女の場合、意識の変化と同時に外的な関係性も変化する。良くも悪しくもその変化は、ストレスを生み、互いを傷つけあい、事件を引き起こし、結論を要求する。そうしたドラマを愉しむのとは別種の趣向が百合漫画の読者に働いている。それは、「終わりのない安定した世界」という幻想である。そして、この世界で「男」は端的に「語られない存在」として疎外される。注意しなければならないのは、男が敵視されるわけでも、排除されるわけでもない点だ。むしろ透明にされた、すなわち安定した女の子どうしの世界をまなざす男の視線が不可視化したと述べた方が適切だろうか。しかも、男の意識がみることを通じてこの世界を変えることはない。それは作中で、登場人物の意識の変化が二人の女の子の関係性を変えないのと同様である。作中でも、作品と読者のあいだでも、男性的視線は不可視のものとなり、しかも世界の安定に寄与する以外の役割を与えられない。もはや男の子の居場所はないのだ。いまや、王子様もお姫様も、どちらも「かわいい」女の子が「かわいい」女の子を承認するための衣装なのである。