この感情は百合だ

乙女ケーキ (IDコミックス 百合姫コミックス)

乙女ケーキ (IDコミックス 百合姫コミックス)

 女の子はなぜ甘いケーキが好きなのだろう。なぜかわいらしいぬいぐるみを集めるのだろう。なぜ清らかな花を愛でるのだろう。それは、女の子が甘く、かわいらしく、清らかであろうとするからだ。彼女たちがほんとうに好きなのは、ケーキを食べる甘い私、ぬいぐるみに囲まれたかわいらしい私、花に包まれた清らかな私という自分自身の偶像である。したがって、ケーキやぬいぐるみや花は自己愛の道具にすぎない――自分とは別のかわいい女の子さえも。
 実は、このレヴェルにとどまる限り百合の感情はまだ生まれていない。それどころか、タカハシマコの作品でこの種の女の子は、主人公の女の子の対として描かれるにすぎない。では、百合という感情はどこに発生するのだろうか。
 「あかいかさ、しろいかさ」を見てみよう。作品世界の視点は野村に置かれている。野村のことをかわいいと言って愛でる笹木は野村を自己愛の道具にしている。物語の終盤で、そのことに気づいた野村はある種の衝撃を受ける。
 「――私…世界に女の子は私だけだと思ってたんだ/彼女の目はいつだって彼女自身にむいていたのに」
 このモノローグは『乙女ケーキ』という短編集に通底する百合観を端的に表現している。ひとつは、女の子は世界に一人である、という専制主義的少女観。この認識は、かわいいものを自己愛の道具にする女の子にも当てはまる広範なもので、不可欠の大前提である。その上で、もう一人の女の子が世界に存在するのを許すことができる、これが百合の最も基本的な発想である。この発想は感情が育つにつれて形を変え、より強い主張になる。すなわち、この世界に女の子は私とあの子の二人だけ、というテーゼだ。それゆえ、『乙女ケーキ』は執拗に二人の女の子の話をする。その他大勢の女の子には名前も当てられない。はじめからこの世界に居場所が与えられていない。自らの専制を崩しても良い特別な存在は、つねに一人である。
 「ぬいぐるみのはらわた」は、理佐の自己愛の道具になりたい泉が主人公だ。理佐の持つぬいぐるみになりたい、などと妄想をふくらませつつ、泉は理佐の片思いの橋渡し役さえつとめてしまう。この物語で泉はもっぱら理佐にふりまわされる方だが、どうにかして理佐の世界に唯一許される女の子になれないものかと苦心惨憺する。作中で泉のこの努力は、意中の男の子に気に入られたい理佐の努力と対比的に語られている。理佐は彼に気に入られようと身につけていたぬいぐるみを引きちぎって現れるが、後から泉にかけた電話では「そんなの外側だけの話よー」と言ってのける。男の存在は理佐の専制主義的少女観をみじんも揺り動かさない。それに対して泉はもう世界に自分だけではいられない。理佐というもう一人の女の子がいてこそ泉の世界は成立する。
 「みちくさ」は、女の子どうしの関係がきわめて対照的に抽出されている。一方の女の子は女の子が好きなふりをしているだけで、自己愛のレヴェルにある。だから男の子たちの様子も気になるが、自分の専制主義は揺らがない。そして、他方の女の子に存在を許されていることに甘えている。その他方の女の子は自己愛と専制主義の女の子の言葉に傷つき、冷たい気持ちになる。それは、自分が世界に彼女の存在を許しているのに、彼女の方はまだ自分の存在を彼女の世界に許していないからだ。「ぬいぐるみのはらわた」の二人の関係を凝集した話だと言えよう。
 書き下ろしの表題作「乙女ケーキ」や「タイガーリリー」は互いが互いの存在を自分の世界に認めた話だ。そこでは、二人がつねに一緒であることと相手のことなら何でも知っているということが鍵となる要素として語られる。「タイガーリリー」にあるように、その関係は夫との結婚生活さえ超越する。二人が互いの存在を女の子として自分の世界に認めるかぎり、二人は永遠に女の子であり続ける *1。もちろん、実際に時間は過ぎ行く。それゆえ痴呆という形を通してトラとゆりは世界の崩壊を経験するのだが、それでも二人が触れ合った事実、百合という感情は永遠のものだという。
 収録作のなかでは比較的早い時期に位置する「夏の繭」と「サンダル」は、どちらも少女性からの逃避を描いている。「夏の繭」のナツは男の子にデートに誘われ、感情が高ぶることで自分が汚れてしまったように感じた。それは専制主義的な少女の世界に楔が打ち込まれたからだ。「男の子」や「生理」は楔の象徴として語られる。そうして汚れに苛まれるナツは、まだ専制主義的な少女の世界に厳然としている繭の髪を美しいものとして愛でる。こうすることでナツは失われつつある少女性の回復を試みる。しかし、彼女に触れることは自分の汚れを伝染させるような気がしてならない。他方、繭はナツに髪を触れられたときに性的な快楽を感じてしまう自分を汚れていると思っている。だから、彼女は髪を切り、それをトイレの汚物入れに投げ捨てる。ナツにとって少女性の回復薬だと思われた髪は、繭にとって汚れの象徴だったわけである。この髪がナツを汚してしまうことを繭は恐れる。「夏の繭」の二人は、それぞれ相手を少女世界の専制君主に仕立てあげ、その世界から自分を排除していく。「サンダル」の小枝も、わざわざ女の子らしさを消していくことで絹絵を世界で唯一の女の子に仕立てあげる。もっとも、ここで述べられている世界はいずれも自分の世界である。自分の世界の専制君主の座を、自分が認められる唯一の女の子に明け渡す。自己愛の塊である女の子がこの地点へと足を踏み出すところに百合の感情は生まれる *2
 さて、単純に「この世界に私とあなた二人だけ」というのであれば、相手が女であろうと男であろうと関係なくなってしまう。それゆえ、自己愛を堅持するにしろ放棄するにしろ、女の子の専制主義がきわめて重要な前提になるのだ。男が相手であるかぎり、女の子の専制主義は揺るがない。その世界に女の子は自分一人だからだ。二人目の女の子が自分の世界に登場するのを許容できるか、そしてそれまで自分がいた玉座を半分にしろ全部にしろ相手に明け渡すことができるか、これが百合とそうでないものの分水嶺になる。冒頭の「あかいかさ、しろいかさ」に戻ると、自分を自己愛の道具にしていた笹木の専制主義さえも許容し、自分の世界のなかに認めた最後のページでようやく野村に百合の感情が生まれたのである。この感情はただ仲の良いだけの女子同士というくくりでは語ることができない。百合の感情は、少女世界の共同統治あるいは帝位の交替を目指す。三人目の入る余地はないし、そもそも男は即位できないのである *3
 『乙女ケーキ』が注目に値する作品であるのは、単に女の子が女の子を好きになるだけでは百合という感情は生まれない点を描いたところにある。少女世界の支配権の譲渡こそが、百合の土壌にある。

*1:ちなみに老人が若い頃の姿のまま描かれるというモチーフは大島弓子金髪の草原」(『大島由美子選集10巻』収録)にもある。こちらは男性だが。

*2:アニメ版の『lain』における玲音とアリスの関係をこの視点から解釈することも可能であろう

*3:この点で、金田一連十郎の『ニコイチ』は完璧な女装をやってのける男と女性の百合関係を描く、というおもしろい試みをしている