この感情は百合だ

乙女ケーキ (IDコミックス 百合姫コミックス)

乙女ケーキ (IDコミックス 百合姫コミックス)

 女の子はなぜ甘いケーキが好きなのだろう。なぜかわいらしいぬいぐるみを集めるのだろう。なぜ清らかな花を愛でるのだろう。それは、女の子が甘く、かわいらしく、清らかであろうとするからだ。彼女たちがほんとうに好きなのは、ケーキを食べる甘い私、ぬいぐるみに囲まれたかわいらしい私、花に包まれた清らかな私という自分自身の偶像である。したがって、ケーキやぬいぐるみや花は自己愛の道具にすぎない――自分とは別のかわいい女の子さえも。
 実は、このレヴェルにとどまる限り百合の感情はまだ生まれていない。それどころか、タカハシマコの作品でこの種の女の子は、主人公の女の子の対として描かれるにすぎない。では、百合という感情はどこに発生するのだろうか。
 「あかいかさ、しろいかさ」を見てみよう。作品世界の視点は野村に置かれている。野村のことをかわいいと言って愛でる笹木は野村を自己愛の道具にしている。物語の終盤で、そのことに気づいた野村はある種の衝撃を受ける。
 「――私…世界に女の子は私だけだと思ってたんだ/彼女の目はいつだって彼女自身にむいていたのに」
 このモノローグは『乙女ケーキ』という短編集に通底する百合観を端的に表現している。ひとつは、女の子は世界に一人である、という専制主義的少女観。この認識は、かわいいものを自己愛の道具にする女の子にも当てはまる広範なもので、不可欠の大前提である。その上で、もう一人の女の子が世界に存在するのを許すことができる、これが百合の最も基本的な発想である。この発想は感情が育つにつれて形を変え、より強い主張になる。すなわち、この世界に女の子は私とあの子の二人だけ、というテーゼだ。それゆえ、『乙女ケーキ』は執拗に二人の女の子の話をする。その他大勢の女の子には名前も当てられない。はじめからこの世界に居場所が与えられていない。自らの専制を崩しても良い特別な存在は、つねに一人である。
 「ぬいぐるみのはらわた」は、理佐の自己愛の道具になりたい泉が主人公だ。理佐の持つぬいぐるみになりたい、などと妄想をふくらませつつ、泉は理佐の片思いの橋渡し役さえつとめてしまう。この物語で泉はもっぱら理佐にふりまわされる方だが、どうにかして理佐の世界に唯一許される女の子になれないものかと苦心惨憺する。作中で泉のこの努力は、意中の男の子に気に入られたい理佐の努力と対比的に語られている。理佐は彼に気に入られようと身につけていたぬいぐるみを引きちぎって現れるが、後から泉にかけた電話では「そんなの外側だけの話よー」と言ってのける。男の存在は理佐の専制主義的少女観をみじんも揺り動かさない。それに対して泉はもう世界に自分だけではいられない。理佐というもう一人の女の子がいてこそ泉の世界は成立する。
 「みちくさ」は、女の子どうしの関係がきわめて対照的に抽出されている。一方の女の子は女の子が好きなふりをしているだけで、自己愛のレヴェルにある。だから男の子たちの様子も気になるが、自分の専制主義は揺らがない。そして、他方の女の子に存在を許されていることに甘えている。その他方の女の子は自己愛と専制主義の女の子の言葉に傷つき、冷たい気持ちになる。それは、自分が世界に彼女の存在を許しているのに、彼女の方はまだ自分の存在を彼女の世界に許していないからだ。「ぬいぐるみのはらわた」の二人の関係を凝集した話だと言えよう。
 書き下ろしの表題作「乙女ケーキ」や「タイガーリリー」は互いが互いの存在を自分の世界に認めた話だ。そこでは、二人がつねに一緒であることと相手のことなら何でも知っているということが鍵となる要素として語られる。「タイガーリリー」にあるように、その関係は夫との結婚生活さえ超越する。二人が互いの存在を女の子として自分の世界に認めるかぎり、二人は永遠に女の子であり続ける *1。もちろん、実際に時間は過ぎ行く。それゆえ痴呆という形を通してトラとゆりは世界の崩壊を経験するのだが、それでも二人が触れ合った事実、百合という感情は永遠のものだという。
 収録作のなかでは比較的早い時期に位置する「夏の繭」と「サンダル」は、どちらも少女性からの逃避を描いている。「夏の繭」のナツは男の子にデートに誘われ、感情が高ぶることで自分が汚れてしまったように感じた。それは専制主義的な少女の世界に楔が打ち込まれたからだ。「男の子」や「生理」は楔の象徴として語られる。そうして汚れに苛まれるナツは、まだ専制主義的な少女の世界に厳然としている繭の髪を美しいものとして愛でる。こうすることでナツは失われつつある少女性の回復を試みる。しかし、彼女に触れることは自分の汚れを伝染させるような気がしてならない。他方、繭はナツに髪を触れられたときに性的な快楽を感じてしまう自分を汚れていると思っている。だから、彼女は髪を切り、それをトイレの汚物入れに投げ捨てる。ナツにとって少女性の回復薬だと思われた髪は、繭にとって汚れの象徴だったわけである。この髪がナツを汚してしまうことを繭は恐れる。「夏の繭」の二人は、それぞれ相手を少女世界の専制君主に仕立てあげ、その世界から自分を排除していく。「サンダル」の小枝も、わざわざ女の子らしさを消していくことで絹絵を世界で唯一の女の子に仕立てあげる。もっとも、ここで述べられている世界はいずれも自分の世界である。自分の世界の専制君主の座を、自分が認められる唯一の女の子に明け渡す。自己愛の塊である女の子がこの地点へと足を踏み出すところに百合の感情は生まれる *2
 さて、単純に「この世界に私とあなた二人だけ」というのであれば、相手が女であろうと男であろうと関係なくなってしまう。それゆえ、自己愛を堅持するにしろ放棄するにしろ、女の子の専制主義がきわめて重要な前提になるのだ。男が相手であるかぎり、女の子の専制主義は揺るがない。その世界に女の子は自分一人だからだ。二人目の女の子が自分の世界に登場するのを許容できるか、そしてそれまで自分がいた玉座を半分にしろ全部にしろ相手に明け渡すことができるか、これが百合とそうでないものの分水嶺になる。冒頭の「あかいかさ、しろいかさ」に戻ると、自分を自己愛の道具にしていた笹木の専制主義さえも許容し、自分の世界のなかに認めた最後のページでようやく野村に百合の感情が生まれたのである。この感情はただ仲の良いだけの女子同士というくくりでは語ることができない。百合の感情は、少女世界の共同統治あるいは帝位の交替を目指す。三人目の入る余地はないし、そもそも男は即位できないのである *3
 『乙女ケーキ』が注目に値する作品であるのは、単に女の子が女の子を好きになるだけでは百合という感情は生まれない点を描いたところにある。少女世界の支配権の譲渡こそが、百合の土壌にある。

*1:ちなみに老人が若い頃の姿のまま描かれるというモチーフは大島弓子金髪の草原」(『大島由美子選集10巻』収録)にもある。こちらは男性だが。

*2:アニメ版の『lain』における玲音とアリスの関係をこの視点から解釈することも可能であろう

*3:この点で、金田一連十郎の『ニコイチ』は完璧な女装をやってのける男と女性の百合関係を描く、というおもしろい試みをしている

王子様とお姫様

かわいいあなた (IDコミックス 百合姫コミックス)

かわいいあなた (IDコミックス 百合姫コミックス)

 乙ひより『かわいいあなた』の表題作「かわいいあなた」は女の子に好きだと告白された女の子の心の変化を描いた作品。幼い頃から男の子に見間違われ、おかまみたいと笑われて傷つく藤代まりあ。いやでも認めざるを得ないほどかわいらしく、それを認めたくない同級生の女子たちに毛嫌いされながらも、意に介さず我が道を行く柴崎あかね。高校の文化祭でまりあは王子役を、あかねはお姫様役をすることになった。あかねはまりあのことを好きだと言い、かわいいと言う。そう言われるたびにあかねは「自分がみじめになってくる」。「そんなかわいい顔で私のことかわいいっていわないで」と思う。この時点でのあかねは「女の子に対する女の子の目線」であかねを見ている。同じ女として容姿を比べてしまう。すると自分のことがみじめになる。そんな自分をかわいいと言われることに納得できない。どちらがよりかわいいかは明白だからだ。
 しかし、舞台をいやがっていたまりあの為に自分の衣装を破いておく、という細工までしたあかねに告白され、彼女を意識するようになった後のまりあの認識は変わる。「あかねさんはカッコイイ」。それは彼女が自分のためなら何をするのも厭わないからだ。だから、どれほどお姫様の格好が似合うのだとしてもあかねはまりあにとっての「王子様」なのである。もはやまりあの目線は女の子どうしのそれではない。「あかねさんといるとなんだか自分がかわいくなったような気がするからふしぎ」とまりあは思う。これは「王子様に対する女の子の目線」だ。
 冒頭の短編「Maple Love」でも同様だが、女の子に好かれてしまった女の子が認識を変える契機は「自分のためなら何でもする」相手の献身である。あかねは、まりあにお姫様の格好は似合わないと何気なく言ってしまう級友に対して怒る。舞台に出ることが憂鬱なまりあのために、自分自身の衣装を破いておいて舞台を中止にしようとする。まわりからみれば傍若無人でしかないふるまいは、すべてまりあに向けられた愛情だ。まるでお姫様の危機を王子様が救うが如く。
 作中に出てくる「マレーン姫」はグリム童話の一編。隣国の王子と相思相愛の仲であったマレーン姫が政略によって仲を裂かれ、幽閉される。その間に国は滅び、マレーン姫は放浪する。着いた先はかつて相思相愛の仲にあった王子のいる隣国。そこでは、王子が別の国の王女と結婚する準備が進められていた。しかし、この王女は容姿に自信がなく、偶然にも給仕の仕事をしていたマレーン姫に身代わりを頼む、というお話(この後、王女とマレーン姫のあいだで一悶着ある)。あまり本作品の筋とは重ならないのだが、容姿に自信のなかった王女とマレーン姫の二役をまりあの認識が変わる前後にあてはめると、よく通じる。
 元より女の子が好きなわけではない女の子が、同性からの告白にこたえるには劇的な意識の変化が伴わなければならない。それはまるで異なる人格に移行するかのようなものだ。但し、乙ひよりはそれを重々しく深刻に描かない。自分をお姫様だと認めてくれる王子様の登場、という比較的使い古された舞台装置を利用して、意識の変化を実にスムーズに流してしまう。「Maple Love」でも相思相愛となった後で、かえは「なにかかわったんかなぁ」とつぶやく。おそらく、ほとんど何も変わっていないのだ。
 意識の劇的な変化が二人の関係の方向性を変えない。このモチーフは(もちろんすべてではないが)ある種の百合漫画作品にとって重要である。こうした作品群が示しているのは、女の子どうしの親友関係の延長線上にある百合関係だからだ。男女の場合、意識の変化と同時に外的な関係性も変化する。良くも悪しくもその変化は、ストレスを生み、互いを傷つけあい、事件を引き起こし、結論を要求する。そうしたドラマを愉しむのとは別種の趣向が百合漫画の読者に働いている。それは、「終わりのない安定した世界」という幻想である。そして、この世界で「男」は端的に「語られない存在」として疎外される。注意しなければならないのは、男が敵視されるわけでも、排除されるわけでもない点だ。むしろ透明にされた、すなわち安定した女の子どうしの世界をまなざす男の視線が不可視化したと述べた方が適切だろうか。しかも、男の意識がみることを通じてこの世界を変えることはない。それは作中で、登場人物の意識の変化が二人の女の子の関係性を変えないのと同様である。作中でも、作品と読者のあいだでも、男性的視線は不可視のものとなり、しかも世界の安定に寄与する以外の役割を与えられない。もはや男の子の居場所はないのだ。いまや、王子様もお姫様も、どちらも「かわいい」女の子が「かわいい」女の子を承認するための衣装なのである。

働かざる者たちによる物語『WORKING!!』

WORKING!! 5 (ヤングガンガンコミックス)

WORKING!! 5 (ヤングガンガンコミックス)

 ある組織や集団が効率よく仕事をしようとするのであれば、ひとりひとりが役割を分担して協力するのが良い。分業は集団作業のひとつのスタイルであり、とりわけ大工場労働をはじめとした近代以降の労働形態を特徴づけるものである。
 「はたらく(work)」は、その元々の意味に立ち帰れば、肉体や精神を機能させて何かを作り出すことである。そうして作り出されたもの(work)は「製造物」「作品」である。あるひとつの作品を完成させるためには、はたらかねばならないわけだが、それは何も作品の製作者だけに限られるわけではない。その作品のなかで機能する個々の部品が全体を形成するよう適切な役割を与えられ、分業させられる。これもまたはたらくことである。
 物語のなかで登場人物はそれぞれの役割を与えられる。役割を忠実に果たす登場人物は作品を完成されたものにするうえで欠かせない。逆に、役割が定まらない、役割を十分に果たせない登場人物は物語のメインストリームから外れていく。物語の本筋は登場人物たちの分業の成果であり、話の途中でころころと人物の役割が変更されてしまうような物語は主題のつかめない漫然とした作品になる。おもしろいことに、読者はたとえ登場人物の固有名をおぼえていなくとも、物語上の役割さえつかめれば話を読み進めることができる。それは物語の本筋が登場人物たちの役割の網の目、いわば分業によって構成されていくからだ。推理小説やサスペンスは、話が進むにつれて登場人物たちの役割が次第に明らかになり、「犯人」の役割に特定の人物が当てはまること(分業の穴埋め)によって物語が完成する。最も素朴なラブストーリーは、「愛し合う二人」という役割が成就することを読者が期待するところに感動の中心がある。だから、二人にまつわるその他の役割は副次的な衣装にすぎない。
 ふつう、物語のなかを動き回る登場人物たちは自分に与えられた役割に疑問を抱かない。犯人を追い回している刑事が「そもそもなぜ自分が事件を解決しなければならないのか」と疑問に駆られ職務を放棄すれば、いつまでもそのサスペンスは終わらないだろう。あるいは「愛し合う二人」が「なぜ自分が恋をしなければならないのか」と立ち止まって考え込んでしまえば、それは読者や視聴者が期待するのとは違う話になる。物語の本筋が安定して進むには、登場人物たちのこうした無自覚がある程度必要なのである。
 『WORKING!!』は、ほとんどまともに「はたらかない」ファミレス店員たちの物語である。たまにつくられる料理は、店長の杏子の胃袋におさめられるばかりで、たまに登場する男性客は伊波に殴られるがための獲物である。基本的に時間経過が描かれず、会話劇であるこの作品では、仕事上の役割はほとんど意味がない。彼らの物語上の役割は別のところにある。たとえば、小鳥遊宗太は「小さいものが好き」である。伊波まひるは「男を見たら殴る」。種島ぽぷらは「小さい」。白藤杏子は「働かない店長」であり、轟八千代は「杏子のことしか頭にない」。佐藤潤は「八千代のことが好きで、種島をからかうのも好き」だが、相馬博臣はそんな佐藤をはじめとした「同僚たちの秘密を握って優位に立つ」。山田は「甘やかされたいが、しかし甘やかされない」。誰一人として仕事をしない。
 その一方で、『WORKING!!』は、自分に与えられた役割に疑問を持つファミレス店員たちの物語でもある。小鳥遊宗太は「小さいものが好き」なはずなのに、小さくもなければ年上で凶暴な伊波まひるの良さがわかってしまったことに苦悩する(5巻57,58頁)。その伊波まひるは「男を見たら殴る」ほど男性恐怖症なのに、小鳥遊を好きになってしまって苦悩する。しかも彼女は「小鳥遊に恋する女の子」という新たに与えられた自分の役割にさえ疑問を持ったり(4巻7,8頁)、男性恐怖症だからこそ小鳥遊にかまわれている自分の立場に葛藤する(4巻88,89頁)。種島ぽぷらはさかんに「小さくないよ」と自分の役割を否定し、山田もまた「甘やかされない」自分の役割を乗り越えようと奮闘する(両者とも無駄な努力ではあるのだが)。八千代は「杏子のことしか頭にない」はずなのに、なぜか佐藤が気になり始め、その佐藤は種島いじりに飽きてきたと悩む(5巻85-90頁)。相馬は他人の秘密を握って優位に立つのが自分のキャラだと思っているが、山田を泣かせているところを逆に見られて動揺する(3巻55,56頁)。彼らは自分に与えられた物語上の役割に疑問を持ったり、否定したりする。特に小鳥遊と伊波にそれが顕著である。
 おもしろいのは、こうした登場人物たちの煩悶がむしろ『WORKING!!』の本筋を形成している、ということである。まさしく、ファミレス店員としても、物語の一役割としても登場人物たちがはたらかないところに『WORKING!!』の魅力がある。もし、伊波が男性恐怖症で凶暴なだけであり続けたら、いまのような人気は得られなかっただろう。小鳥遊がただひたすら小さいものを愛でるだけだったら、逆に物語は進展しなかっただろう。種島に強制されてではあるにせよ、自分の役割ではないと内心思いつつ、伊波をほめてみたり(1巻74頁)、彼女の男性恐怖症を治せば解放されると思いつつも、誰かわからない男が好きだと聞いて釈然としなかったりする(5巻26頁)。はじめに自分に与えられた役割と、いま自分が置かれている状態との食い違いに葛藤し、安定した無時間的な4コマ漫画の世界を動揺させる。この動揺こそが『WORKING!!』の出来事の進展(時間の進行ではない)を形成している。
 反対に、「働かない店長」の杏子や「空気のような」音尾は自分に与えられた役割に忠実である。本来、こうした登場人物のほうが物語の本筋を組み立てるのに使われやすいはずなのだが、『WORKING!!』では逆にメインストリームから外れてしまう。彼らが主として絡む話は、いつまでも時間が進まない漫画世界を構築し、いつも通りに日常でした、という「空気」をつくる。しかし、それは『WORKING!!』の魅力のもとではない(それゆえ、『WORKING!!』を「空気系」の4コマ漫画だと評価するのは一面的である)。あくまでも杏子や音尾の役割は、あるいは佐藤がいつものように種島をいじり、八千代がいつものように杏子にべったりすることの物語上の役割は、小鳥遊や伊波が葛藤して進めてしまった物語世界の進行にブレーキを掛けることである。ちょうど反対方向へと力がはたらく二つの歯車が拮抗しているところに、『WORKING!!』の物語は展開する。
 さて、人物が葛藤するだけであれば、それはべつだん珍しいことではない。主人公が戦うことや自分の使命に疑問を抱き、悩みながら成長する物語はマンガのなかでも数多く見られる。葛藤は、はじめに与えられた自分の役割を変化させ、更新する契機である。とはいえ、更新された役割は以前の役割の否定の上に成り立ち、その人物の立ち位置が変わるだけで物語の本筋は大きく変わらない。たとえば『ダイの大冒険』で敵であったヒュンケルは、その後仲間になる。しかし、この役割の変化はなるべくしてなった、というストーリー上の理由付けがなされる。そして彼が敵という役割から外れるだけで、敵の役割をするものが全くいなくなるわけではない。物語の大枠から見れば、分業の構造は変わらず、人物の配置が変わるだけなのである。かつての敵が仲間になり、また新たな敵が現れる、というパターンもまた安定した物語の一ヴァリエーションにすぎない。
 ところが『WORKING!!』では、登場人物たちは葛藤しても成長はしないし、ほとんど役割を変えない。相変わらず伊波は小鳥遊を足蹴にし(5巻78頁)、その小鳥遊は小さいもの(主に種島)を愛でている。彼らは成長物語を展開させるような役割変更をしない。いわば無駄に葛藤し、無駄に苦悩する。役割に忠実でないばかりか、そういう意味でも彼らは物語上適切にはたらいてはいないし、何も生み出さない。
 物語上の役割を忠実に果たすわけでもなく、また役割変更というダイナミックな展開をつくるわけでもない。前者からすれば、それは安定した物語を崩しかねない契機になり得たであろう。他方、後者からすれば、動きのないほのぼのとした、安定した物語を期待しえたであろう。そのどちらでもない、という形で「はたらかない」姿をこれほど魅力的に描き出したマンガは、希有ではないだろうか。

『ヒャッコ』と空間表現

ヒャッコ 3 (Flex Comix)

ヒャッコ 3 (Flex Comix)

 カトウハルアキは空間表現が非常に巧みな漫画家の一人である。とりわけ、複数の異なる空間を交互に差し込みながら同一の話を展開させるところが巧い。『ヒャッコ』の第3巻で秀逸なのは「19コメ 虎子故に迷う鬼心」である。3巻収録の他の話では、主要な人物どころかモブまで含めて非常に多くの人物がひとつの空間(ひとつのコマではなく)に配置される。しかし、「19コメ」のみはひとつの空間に最大で3人までしか配置されない。モブに至っては一人も描かれない。なおかつ、複数の空間が交錯した場合であっても1頁には3人までしか登場しない。これが単なる作画の省エネではなく、演出効果を狙ってのことだというのは3巻全体を読み通せばわかるだろう。
 以下、順を追って詳しく見ていこう。

(p.58/59)

 58頁は中扉で、コマ割りが始まるのは59頁から。
 空間1。「驚く表情の歩巳と龍姫」で始まり、「歩巳と狐の足下を見下ろす構図」で終わる。最終コマには誰の表情も映らない。

(p.60/61)

 空間2。59頁の最終コマを引き受けて「鬼百合の足下から見上げる構図」で始まる。この構図でも鬼百合の表情は映らない。60頁の下段右で「鬼百合の背中とそれを突く雀の腕(両者表情なし)」、下段中央で「振り向く鬼百合の表情」、下段左で「雀の怒った表情」と続き、61頁上段で60頁下段右と同じ状況を違う角度から映す(ここでも両者表情なし)。61頁上段のコマは60頁下段右のコマからほんの一瞬後の場面だが、あいだに2コマ差し挟まれ、そこで視点の移動が行われている。読者は隠されていた「表情」という新しい情報を1コマごとに受け取るので、あいだに2コマあっても冗長には感じない。にもかかわらず、2コマ分時間の進行が遅延されているので、ゆっくりと時間が進んでいるかのように感じられる。この緩やかさを受けつつ61頁下段は「夕焼けの空」を映し、空間3を開始する。

(p.62/63)

 引き続き空間3。61頁の「夕焼けの空」を引き受けて、「屋上で膝を抱える虎子・その後ろに立つ冬馬(両者とも後ろ姿だけで表情なし)」。62頁中段は「困った表情の冬馬」。台詞はなく、62頁上段と中段のコマは時間的には同時である。59頁で空間2の時間感覚を引き継いでいる読者は空間3の時間が止まっているかのような感覚を違和感なく享受する。ここで空間3の時間は止められ、62頁下段から空間1に戻る。
 63頁上段右「表情のない歩巳・龍姫・狐」、上段左「表情のある歩巳・龍姫」、中段「狐の手のみ」(ここで虎子の母親が亡くなっている、という真実を明かす)、下段右「驚く表情の歩巳・龍姫」、下段左「表情のある狐」。上段右のコマに表情がないことで、読者の視線は吹き出しで語られる内容に集中する。中段も同様の効果がある。59頁と合わせて、ここまでの空間1は狐対歩巳・龍姫という対比の構図を描いている。この対比が記憶されることで、66頁からの空間1の分離は本当は時間的な分離なのだが、あたかも空間的な配置上の分離として描かれる。

(p.64/65)

 再び空間3。64頁上段「表情のある虎子・冬馬」は、62頁中段「困った表情の冬馬」を引いた絵になっている。したがって時間的には62頁中段の直後である。ところが、読者は64頁から65頁にかけての空間1を情報として読み込んでいる。だから、狐の「(虎子の母親が)亡くなっている/死んだんだよ/病気だって聞いたけど」を引き受けて、64頁上段の虎子の台詞「トーマ、アタシをなぐさめて」を容易に誤読できる。ここでの台詞は実際には、姉と喧嘩をして頬を叩かれたことに関しての「なぐさめ」であるはずなのだが、読者は虎子が母親を亡くしたことへの「なぐさめ」に読めてしまう。歩巳・龍姫と冬馬のあいだには情報量の差があり、63頁から64頁にかけては空間的にも話としてもつながっていない。だが、64頁の虎子の台詞があるために読者にはつながっているように読めてしまう
 64頁中段からは同じ焦点の当て方が反復される。「冬馬」「冬馬」「虎子と冬馬」「虎子」「冬馬」。この展開は65頁では「冬馬」「冬馬」「虎子と冬馬」。中段でもう一度「虎子と冬馬」を出して仕切り直し、「虎子」「冬馬」。コマの割り方を変えているが、焦点の当て方は両頁で同じである。読者はテンポを崩さずに、虎子と冬馬という1対1の構図を頭に入れられる。

(p.66/67)

 空間1。66頁上段で「表情のない歩巳・龍姫」、下段で「表情のある横顔の歩巳・龍姫」。そして、それぞれの表情をクローズアップしたコマを67頁では大胆に上段「龍姫のみ」、下段「歩巳のみ」で出している。その2つのコマを割る中段には、63頁の直後と思われる(つまり、66頁から見ると時間的に前に戻る)狐のコマが入る。64頁・65頁の虎子と冬馬の1対1構図が頭に入っているので、読者はここで時間が飛んでいてもすんなり歩巳と龍姫の1対1構図を受け入れられる。そして、63頁までの2対1構図が過去のものであることを、1対1構図の真ん中に「過去の狐」を割りいらせることで表現している。人物配置の構図を2体1から1対1にずらすだけで時間の経過さえも表現している

(p.68/69)

 68頁3段目「歩巳と龍姫の後ろ姿」で空間1は終わり、それを引き受けて68頁4段目「狐の後ろ姿」から空間4。69頁は上段で空間4「狐の横顔(表情あり)」、下段で空間2から移動した空間5「鬼百合の横顔(表情なし)」の対照を描く。これも1対1構図である。

(p.70/71/72)

 69頁下段の「鬼百合の横顔(表情なし)」を引き受けて、空間5に空間3にいた虎子と冬馬が入ってくる。いったん2対1構図が導入されるのだが、すぐに鬼百合と虎子の1対1構図に焦点が絞られる。70頁下段右、71頁上段右、71頁下段右と続く鬼百合はどれもやや斜めからの横顔で表情に変化がない。他方、70頁上段、71頁上段右、上段左上、上段左下、下段左と続く虎子の表情はすべて違う。これを踏まえて頁をめくり、72頁。上段で初めてみせる「優しい表情の鬼百合(虎子からの目線)」、中段で「泣きながら謝る虎子(鬼百合からの目線)」、下段で「居心地の悪そうな冬馬」。
 表情の変わらない鬼百合と、ころころ変わる虎子の対照を利用して72頁の上段・中段の効果を上げている。同一のコマの中に描かれていないにもかかわらず、それまですれ違っていた二人の視線が71頁下段から72頁の上段・中段にかけて重なり合い、「同じ場所」の共有を見せる。
 67頁で「したたかに」2対1構図から狐が退場したのとは対照的に、72頁で焦点がすでに1対1構図に移っているにもかかわらず「退場しそこねた」冬馬が居心地悪そうにしているところなども、実際のその場の雰囲気・作画上の構図の両面を重ね合わせている巧い見せ方だ。
 『ヒャッコ』のアニメ化が決定したようだが、ここで述べたような空間の切り取り、コマの割り方による表現の妙技はマンガならではのものである。もちろん、カメラワークなど動画の手法をマンガに取り入れている部分もある。しかし、マンガで巧く表現されたものがそのまま動画になるかは疑問だ。マンガにはマンガ固有の表現技法があるし、アニメもまた然り。できればアニメならではの空間表現が見られるものを期待したい。

さいごに

 ところで、72頁下段左の最後のコマで虎子の鞄から携帯電話の着信音が聞こえる。これが、68頁の歩巳と龍姫であることは想像に難くない。空間5と空間1は空間を超越する装置としての携帯電話によって統合される。最終的に、狐がいる空間4以外のすべての空間は姉妹の和解の場所である空間5において収束する。しかも、彼女たちが異母姉妹であるという点はきわめて象徴的である。百合マンガであるか否かを問わず、女の子の登場人物たちが和気藹々とする様子を描き出すマンガには、彼女たちに姉妹的性格を重ね合わせて読めてしまう傾向がある(血縁あるいは擬似でも姉妹にこだわる必然性はないもかかわらず)。『ヒャッコ』は比較的それが前景化しないタイプのマンガだが、それでもこの「19コメ」や、あるいは「21コメ」の火継の登場でそうした特徴を再確認せざるを得ない。いったいこれがどういう事態なのかは、また稿を改めたい。

「誤配」が織りなす『ハヤテのごとく』

 高橋留美子の作品『めぞん一刻』は「誤配」の物語であった。主人公の五代が発するメッセージは、本人の失敗や一刻館の住人たちの妨害、響子の勘違いなどによって誤って伝わる。五代の発言や行動の真意は宛先である響子に届かないばかりか、それが第三者を経て誤ったメッセージに加工されて響子のもとに届く。誤解した響子の行動がこんどは五代にそのままの形でフィードバックされ、彼は自分のメッセージが誤配されたことに全く気づかないまま傷ついたり、逃げ出したり、喧嘩をしたりする。のちに誤解であることがわかり、五代と響子の関係は元通りに修復される。この繰り返しが『めぞん一刻』の基調を成す(コメディの側面)。他方、『めぞん一刻』が持つ成長物語の側面は、五代が「誤配」を修復しようと努力するところに見られる。五代の意図する正しいメッセージ(響子への好意)が、正しい宛先(響子)に届く。実は物語の初期で酒に酔った五代がこれをすでに遂行していた。長い年月と数々の「誤配」を経て、ようやく物語の終盤で五代はこれを反復できるようになる。無意識のうちに遂行していた原初の「配達」が、いかにして意識のうちで遂行できるようになるかが『めぞん一刻』のもう一つの基調を成していた(成長物語の側面)。
 さて、『ハヤテのごとく』も「誤配」の物語である。その始まりは、誘拐して身代金をせしめようとしたハヤテのメッセージが、好意の告白だと誤解されてナギに伝わったところにあった。それからナギは誤解をしたままであるし、執事として雇われたハヤテもその誤解を解くつもりは今のところない。ハヤテのメッセージを「誤配」されたマリアも今更正しいメッセージを正しい宛先に届ける気配はない。その後のハヤテ自身のナギに対する思いは、恋愛感情というよりむしろ忠誠心と家族的愛情である。このメッセージすら「誤配」され、ナギはハヤテの思いを誤解し、正しいメッセージを受け取ってしまったマリアはそれを隠し続けている。
 15巻の6話、11話で明確になったのは、ヒナギクの好意がハヤテには「嫌われてる」と伝わっていることである。この「誤配」は当事者たちのあいだでは気づかれず、西沢歩の口を通して宛先のハヤテから発信者のヒナギクにフィードバックされる。ヒナギクはこの「誤配」を訂正し、正しいメッセージを正しい宛先に届ける努力を始める(それが次巻への引きになって15巻は終わった)。

ハヤテのごとく! 15 (少年サンデーコミックス)

ハヤテのごとく! 15 (少年サンデーコミックス)

 「誤配」が「コメディの側面」を構成する点は『めぞん一刻』も『ハヤテのごとく』も変わらない。だが、主人公が「誤配」を訂正する努力をしていた『めぞん一刻』の「成長物語の側面」は、そのままの形では『ハヤテのごとく』に現れない。なぜなら、ハヤテは自らの「誤配」を訂正する努力をしないからだ。その一方で、ヒナギクは「誤配」を訂正しようと努力する。ある意味で「成長物語の側面」を担うのはヒナギクだと言って良い。あるいは、ハヤテに好意を伝えようとするナギや歩だと言っても良い(このうち歩だけは正しいメッセージを正しい宛先に伝えることができている。返信は遅延されているのだが)。
 「誤配」をフィードバックする際に媒介する人物は二種類いる。マリアのように、誤配の事実を隠蔽するタイプと、歩のように誤配の事実を発信者(ヒナギク)に開示するタイプである。これらのタイプは媒介者自身の物語上の役割にも相当する(本人の性格ではない)。たとえば、マリアの場合、彼女の出生、生い立ちは隠蔽されたままである。媒介する誤配関係に隠蔽の楔を打ち込むだけではなく、自分自身の秘密をも抱えている。こうした隠蔽型は、生徒会の愛歌(三千院帝との関係)や千桜(咲夜のところでメイドをしていることや趣味)にもみられる。
 他方、歩に関して言えば、彼女は自分の好意をハヤテに開示しているし、ハヤテとの出会い、二人の関係性についての感情、家族関係さえもが物語のなかであらわになっている。15巻で初めて登場した日比野文も開示型なのだが、主役たちの関係性を媒介する役割がまだないので、その特質は明確にならない。
 雪路や美希、理沙、伊澄などは「誤配」を助長するもうひとつの媒介者の役割を担っている(『めぞん一刻』では一刻館の住人たちや七尾こずえがそれに相当していた)。彼女たちはメッセンジャーとして誤配関係を構築する。たとえば、ハヤテの白皇学院入学試験に際しては、理事長からのメッセージを雪路が隠蔽してハヤテに正反対の報告をしてしまう。この誤配はマリアの計らいによって発信者のメッセージごと訂正される。このことからマリアが特権的な媒介者として振る舞っていることがわかる。場面が変わり、15巻の11話ではヒナギクの笑顔を雪路や美希らは誤った形に加工してハヤテへと届ける。こちらの関係においてフィードバックを担う歩は、マリアのような特権的な媒介者ではない。それゆえ、歩はハヤテが誤解しているという情報をヒナギクにフィードバックする以上の特権的な振る舞いはできない。このことがヒナギクに努力を要求するのだ。
 以上踏まえて「誤配」構造を整理すると次のようになる。

 ハヤテ→→→(誤配:伊澄)←←←ナギ
   │ │         │ │
   │ └←咲夜(開示型)→┘ │
   │             │
   └──マリア(隠蔽型)───┘
 咲夜の位置づけはあまり明確ではない。しかし、誤配を助長するよりは、ナギに対してハヤテの心情を代弁したり(1億5000万でハヤテが伊澄に売り飛ばされたとき)、あるいはナギの心情をハヤテに伝えたりするなど、開示型のフィードバックであると見ることができるだろう。

 ヒナギク→→→(誤配:雪路)→→→ハヤテ
   │    (誤配:美希)   │
   │    (誤配:理沙)   │
   │              │
   └←←←←歩(開示型)────┘
 ちなみにメッセージの配達が適正に行われた構造は以下のようなものである。

 歩→→(適配:ヒナギク)→→ハヤテ
 │              │
 └←────(遅延)←────┘
 ヒナギクが適配の役割を担っているのは、ヴァレンタインの後押しをしているからだ。もちろん、誤配の機会はあった。ハヤテがヒナギクの家に泊まることになったときも、歩は二人の関係を誤解しそうになったのである。しかし、その誤解はヒナギクによってすぐに解消された。
 15巻6話でハヤテ自身のモノローグとして触れられているように、もしハヤテがごく普通の高校生活を送っていれば、歩は一人、メッセージの伝達に成功し、ハヤテと結ばれるヒロインとなっただろう。しかし、この物語で歩はメッセージが正しく配達されたにもかかわらず、不幸にも(今のところ)ハヤテとは結ばれないヒロインである。そして、誤配が生じないゆえに二人の関係は物語上の幅が広がらない、閉じた円環を形成する。ヒナギクが歩のメッセージを適切に配達する手助けをしたことが、皮肉にも物語上の歩の役割を媒介者に押しとどめさせる結果を招いている。閉じた円環が「誤配」によって破られなければ、歩は物語全体を巻き込むようにはふるまえない。
 『ハヤテのごとく』が「誤配」の物語だというのは、こういう事情によくあらわれている。正しいメッセージが正しい宛先に届くのは「ごく普通」で「良いこと」だと考えられている。しかし、物語のなかで、そうした普通さは特徴のない凡庸な日常に、配達機能の良さは描くべきところのない背景へと退いてしまう。物語の主役を飾るのは、「誤配」されたメッセージと、それをめぐる人物たちのドラマである。そして、「誤配」こそが数多くの登場人物たちを巻き込み、彼女らに物語上の役割という種を撒く舞台装置なのだ。
 今回は『めぞん一刻』にしか触れなかったが、「誤配」によるディスコミュニケーションが物語の原動力となるのは恋愛漫画の主たる特徴のひとつである。『ハヤテのごとく』もその伝統の一端に連なっている。パロディや現代的なガジェットを用いつつも、『ハヤテのごとく』はきわめて正統派なのだと言えるのではないだろうか。

『謎の彼女X』3巻 植芝理一

 『謎の彼女X』は二つの意味で禁欲的である。
 ひとつは、作者・植芝理一にとっての禁欲的な姿勢。彼のまさに十八番と言うべき伝奇的、オカルト的な物語構成がこの作品においては慎重に排除されている。もちろん、それに近いものを想起させるガジェットが夢の場面や卜部のファッションに使われることはある。だが、基本的には高校生の男女交際という日常の側で物語は進む。これは、植芝理一にとって(そして植芝作品のファンにとっても)非常に禁欲的な姿勢を強いられているといっても過言ではないだろう。3巻の巻末で植芝自身が、編集サイドからの指摘を受け入れる形でこの路線を採ったことに言及していることからもわかる。
 もうひとつは、よだれである。椿明と卜部美琴の二人はよだれによってコミュニケーションを図ることができる。それは感情や体の変化を相手に移すことであったり、記憶を伝えることだったりする。表情の起伏が少なく、積極的に自分のことを話すわけでもない卜部の考えや行動は椿にとってまさしく謎そのものだ。彼女が何を考えているのか、彼女がなぜそんな行動をするのか、そのひとつひとつに椿は悩まされる。そして、行き詰まったときに「卜部のよだれをなめる」ことが疑問の氷塊につながる。逆もまたしかり。卜部は椿の口に指を突き刺して彼のよだれを奪うことで、彼がいったい何を考えているのかを知る。よだれはコミュニケーションの挫折を回避するための安全装置なのだ。もっとも、椿にとっては自分の頭の中が覗かれることで逆に困ったことも起きるのだが。

謎の彼女X(3) (アフタヌーンKC)

謎の彼女X(3) (アフタヌーンKC)

 さて、広い意味で言えば、よだれをなめあうのも、キスをするのも、セックスをするのも、互いの体液を混ぜ合わせる行為である。ただ、後の二者はそれと同時に触覚的な刺激を通して快楽を得る。他方、相手のよだれをなめることには、少なくとも触覚的な快楽はない(甘い、などの味覚的な快・不快はある)。実際、椿は卜部のよだれをなめること自体はただの日課だと考えており、そこに性的快楽を見いだしているようには見えない(逆に汚い、とも思っていない)。その点で、このマンガ作品はフェティシズムだが、椿本人にはまるでフェティッシュな嗜好がない。作品の志向と、読者がその視点を通じて作品世界に入り込む主人公の志向とは必ずしも一致しないのである。このことが理解できないと、たとえば悪辣な主人公が出ただけで、その作品は反社会性を肯定しているのだと誤解することになってしまう。
 話を戻そう。キスやセックスには、触覚的な刺激によって得られる快楽がある。他方、よだれをなめる行為にはそれがない。互いの体液を混ぜ合わせることから17歳の少年が期待してしまうであろう快楽は遅延されている。3巻に至っても彼らはまだキスすらしていないのだ(13話でキス直前までいくが)。「相手のよだれをなめる」という言葉が持つ想像上の快楽は、現実の行為には欠如しており、椿はずっと焦らされている。そして遅延される快楽の代補として彼は精神的なコミュニケーションによる快楽を得る。それは卜部の考えていることが少しずつわかってくる、気持ちを共有できる、ということだ*1。触覚的な刺激による快楽を遅延させ、代わりに精神的なコミュニケーションによる快楽に昇華させる。これは非常にストイックな行為ではないだろうか。そして、このストイシズムがはらむ、異性に対するあまりにも大きな期待と自意識過剰な脅えこそが「思春期の恋愛」物語の醍醐味なのだと言えよう。
 3巻はこうした椿のストイシズムもいよいよ限界か、といったところで終わっている。果たして「異性への欲求全開」な17歳の少年はどう転ぶのか。

*1:2巻収録の第9話ではこの快楽が椿自身の言葉で表現されている