みなみけと家族のかたち

みなみけ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

みなみけ(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 春香、夏奈、千秋の三人姉妹が住む南家には小学生から高校生までの様々な友人たちがやって来る。冬馬は名字が同じ「南」だというきっかけだけで千秋から弟の役割を与えられ(本当は女の子)、しばしば三人姉妹と食卓を共にする。マコトも女装したマコちゃんとして頻繁に南家を訪れ、春香の料理にありつく。藤岡は夏奈から夕飯を誘われることがあるし、サンタを演じて千秋に熊のぬいぐるみを贈っている。大晦日には速水やマキ、アツコといった高校生の面々が来て一緒に初詣を計画する。南家に出入りする成人はタケルおじさん(実際には従兄弟)だけで、基本的に親より上に当たる世代は作中に登場しない。マンガ原作はこの傾向が特に強く、背景がほとんど描かれずモブもないので、顔が描かれている人物のなかで最高齢はおそらく30歳を超えない(タケル、冬馬の長兄、千秋の小学校の熊田先生、そして作中劇「先生と二ノ宮君」の先生)。つまり、『みなみけ』は小学生から高校生までの非常に狭い範囲の世代で「家」が構成されているのだ。アニメ第一期はこの原作のテイストを継承していて、顔の描かれる大人はタケルと冬馬の長兄以外はほぼ登場しない。他方、第二期は(1月10日現在でまだ第一話のみ放映された状態だが)既に新聞配達の男性、モブシーンの人々、温泉宿のおばさんといった「大人たち」がタケル以外にも描かれている。アニメ第二期が今後どのように進むのかはわからないが、人物の世代の幅に注目することからも第一期とのスタンスの違いを明らかにすることができるだろう。
みなみけ(2) (ヤンマガKCスペシャル)

みなみけ(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 さて、学校を舞台に描くマンガがこどもたちばかりを描くのは別段珍しいことではない。桜場コハルの前作『今日の5の2』でも描かれた大人は男性の体育教師(顔あり)と女性の養護教諭(顔なし)だけときわめて少ない。しかし、それが極端に不自然ではないのは、学校という特殊な環境のせいであろう。まさしく「子供だけの世界」として描かれた小学校から教師は背景ともども排除される。『今日の5の2』にせよ『みなみけ』にせよ、マンガ原作ではほとんどコマの背景は真っ白である。それゆえ、「背景の省略」と「背景に等しい人物たちの省略」とが読者には同じものに映る。事細かに教室の細部を描かないのと同様に、「子供だけの世界」にとって非本質的な教師や親は描かれない、という暗黙の了解が学校という環境では通りやすい。もちろん、この「通りやすさ」はその手のマンガに読み慣れているかどうかで決まるのだが。読み慣れていない読者にとっては、背景が真っ白なのも、学校なのにほとんど教師が出てこないのも不自然に映る。
 他方、『みなみけ』の中心となる舞台は「家」である。従来、そして現在でも、多くの人にとって通用しているのは、「家族」には両親がいて子供がいて成立する、という漠然とした観念だ。ドラマ性が求められないコマーシャルや写真広告であたりさわりのない家族像を描けと言われたら、おそらくほとんどが両親と子供のセットになるだろう。もちろん、こうした家族像は不変ではない。50年前であれば祖父母を含むのが当然だったであろうし、20年前であれば子供2人が標準だったであろうが、今では子供1人の家族像が増えている。実際には子供のいない夫婦だけの家庭もあるし、片親がいなかったり、高齢者だけだったりすることも少なくない。それでも実像とは別に、わたしたちは「家族とはこういうものだ」というあいまいなイメージを時代に応じて持っている。そして、そのイメージに即して家族のあり方の自然さ・不自然さを判断するのだ。しかも、わたしたちはしばしば「自分には自然だと思われる判断」を「正しい判断」と取り違える。
みなみけ(3) (ヤンマガKCスペシャル)

みなみけ(3) (ヤンマガKCスペシャル)

 上述の家族像からすると、「南家」はいびつで不自然なものに映る。三人姉妹の親は今までのところ登場していない(少なくとも同居していないことは確実である)。正月でも南家を訪れるのは20代の従兄弟・タケルだけだ。小学5年生の千秋から高校2年生の春香まで10代だけで構成された家族、それが「南家」である。一般に通用する家族観からすれば不自然にみえるかもしれないが、しかしこの家庭は常ににぎやかで穏やかな場である。冬馬やマコトや友人たちが出入りし、食卓を囲む *1。言い争い、喧嘩をし、時に泣いたりしても、「南家」という場そのものは揺るぎなく壊れることがない。10代がつくる「家」は、現実には失われつつある家庭の「自己修復機能」と「拡大再生産機能」をしっかり持っているのだ。ただし南家の場合、前者は春香という擬似母親のおかげで成り立っており、また後者は次世代ではなく同世代の家族を増やしていく機能になっている。このような家は「国家の最小単位としての家族」などではないし、「社会的再生産に奉仕する家族」でも「歴史や伝統の継承の場」でもない。国家や社会や歴史から脱落した、10代のための閉じた世界なのである。
みなみけ(4) (ヤンマガKCスペシャル)

みなみけ(4) (ヤンマガKCスペシャル)

 保坂(春香の高校の先輩)が「気持ち悪い」とマキやアツコから言われるのは非常に示唆的である。なぜなら、保坂だけが「春香と結婚して二人の子供(夏奈と千秋)を養う」という一般に流布する家族観を妄想するからだ(原作では8話に少し出てくる程度。アニメ第一期の方がはっきりと描かれている)。父親がいて母親がいて子供が二人いる、それでみんな幸せになれるという保坂の妄想は、今でも多くの人が持ちうる家族のイメージを表現している。しかし、それは「南家」の家族観とは相容れない異質なものだ。
 おもしろいのは、保坂を気持ち悪いと言うのが春香ではない点である。南家の内側にどっぷりと浸っている春香にとって保坂の印象はせいぜい男子バレー部の部長程度だ。閉じた世界の内側にいる人間には外側など無に等しい。ちょうど『今日の5の2』で大人の教師や親が無に等しかったのと同じように。ところが、南家と外の世界の境界線に立つ人間、たとえばマキやアツコにはその境界線を突破して侵入しようとする保坂の「異質さ」が目に付く。保坂を内側に入れてしまうことで「南家」は変質してしまう。それを恐れるからこそ、保坂は「気持ち悪い」のだ。他方、夏奈に思いを寄せる藤岡はすんなりと「南家」に入ることができた。それは、藤岡には恋愛感情はあっても家族観がないからだ。人を好きになることは結婚することとも家族をつくることとも違う。
 新しい家族像の提示は『みなみけ』のテーマのひとつである。それは、「限られた世代だけの閉じた世界」という『今日の5の2』にみられたテーマを「家」に持ち込んだ結果生まれたものだと言える。「南家」は同じ観念を共有する同じ世代にはきわめて寛容にできており、家族の幅を拡大し続ける。しかし、異なる世代、異なる家族観の持ち主には対しては排他的である。ただ、その排他性は「南家」の中心から生まれるのではなく、むしろ半身を「南家」にさらす境界線上の人々によって作り出される。この境界線上の人々によって「南家」は閉じられるのだが、それと同時に開かれてもいる。マキやアツコ、速水といったバレー部の面々がいなかったら、そもそも保坂と春香には接点など生じなかったのだから。この「鍵のかかっていない開かずの扉」こそ、「閉じた世界」像を持つマンガ作品を読み解く有用な補助線となりうるのではないだろうか。

*1:食卓を囲むことは同居以上に「家族」観念の象徴的な行為である。小津安二郎を参照。