『もやしもん』6巻の長谷川と美里

もやしもん6巻限定版 ぬいぐるみ付き
 6巻には非常に特異なコマが2つある。一つめは、カップルを装って追跡を逃れるために、美里が長谷川の手をつなぐシーン(p94上段)。二つめは、追跡者であろう高級車から隠れるために、美里が長谷川を道路脇に押し倒すシーン(p125下段左)。この2つのコマは、『もやしもん』という、1コマのなかで動きを表現することの少ないマンガにあって、珍しく動的なコマである。もっと正確に言えば、一連の動きを読者に想像させた上で、そのなかの一瞬を切り取ったような光景を視覚的に与えているコマである。だから止まっていると言えば止まっているのだが、このコマによって読者は事実的な静止感よりも想像的な動きのほうを優先させる、そういう効果を持っている。
 さて、この2つのコマには共通点がある。
 (1)台詞がほぼ同じ。p94上段のコマでは吹き出しがなく、次の中段のコマで「ななな/何?」という長谷川の台詞が入る。また、p125下段左のコマでは吹き出しに「な な な な」という長谷川の台詞がある。
 (2)いずれも長谷川の顔のみを映し、美里の顔は見えない。p94上段のコマで美里は背中を向けており、しかも頭の部分は枠からはみ出している。p125下段左のコマでは、顔が見える体勢で長谷川を押し倒しに来ているにもかかわらず、彼女を抱きかかえようとする自分の手で顔を隠している。手をつなぐときも、押し倒すときも美里がどんな表情をしているのかは事実的にはわからない。こうすることによって、前者では手に、後者では覆い被さってくる男の体そのものに、長谷川の意識が集中していることを読者は視覚的に追体験できるようになる。
 (3)いずれも長谷川の表情は、驚きから動揺へと移行している。厳密に言えば、p94の場合は、上段のコマで一瞬の沈黙と驚きの表情、そして中段のコマで「ななな/何?」という台詞と動揺の表情が描かれている。他方、p125では下段右のコマで一瞬の沈黙と驚きの表情(この時点で読者には見えないが、すでに美里が長谷川に覆い被さろうとしていることが想像できる)、それから下段左のコマで台詞と動揺の表情になっている。フォーカスがあてられているコマと長谷川の感情表現がちょうど1コマ分ずれている。これは、前者(手をつなぐとき)は長谷川が気づく前に美里が手を出しているのに対して、後者(押し倒すとき)は長谷川の正面から美里が迫っているのであらかじめ気づいている、という違いがあるためである。
 (4)いずれも斜め右下から人物たちをのぞき込むようにして、斜め左上に視線が向かう。つまり、読者の目は非常に低い位置におかれている。そのため、読者は自分の視点が重なり合う人物をコマのなかに想像して投入することができない。それゆえ、読者は想像的にこれらのシーンから長谷川と美里以外の人物を消去してしまう。結果的に2人しかいないように見えるのである。実際には、前者のコマは街中だし、後者のコマはすんでのところで龍太たちの車が通りすぎる。事実的には2人だけの世界ではないのだが、そうであるかのように想像できてしまう。
 以上、4つの表現技法によって、この2つのコマは(a)長谷川を主体とし、(b)美里の「体」を客体とし、(c)長谷川の動的な感情を前面に出し、(d)その感情に支配された世界のなかで、視線が重なりも交錯もしないにもかかわらず読者が長谷川の意識に自分の意識を投入するようにさせている。(a)と(b)は対象として描かれている範囲での事柄である。他方、(c)と(d)は読者の意識、想像の範疇である。『もやしもん』のなかでもこの2つのコマが特異な位置を占めるのは、(c)と(d)の効果が使われているからだ。しかも、絶妙なタイミングで。
 『もやしもん』はただのうんちくマンガじゃないんだ、ということを知らしめた2コマだ。